最終話後の感想を中心に…。

先週の感想は、ほとんど、11話時点の感想がベースだったので、
 
最終話を踏まえたフォローというか補記しておこうと思う。
 
 「中二病でも恋がしたい!
 
最終話の核心に大きく触れる場合は、
事前に「ネタバレ」とか言わなきゃダメなのかな?
 
 
そこ?
 
てか、まだあんだ‥‥。
 
 
 
 

木の葉を隠すなら…

 
第一話の
 
「やっと巡り会えた」「悠久の過去、私と貴方は出逢っている」
 
等々の台詞。
 
中二病設定の効果によって、きれ〜にその伏線が、
 
伏線として目立たなくなっていたね。
 
 
巧いと思った。
 
 
 
伏線と言えば、
 
八話に、中二台詞吐く勇太を見上げるビジョンが一瞬挿入されたけど、
 
その時の六花は私服だったんだよね。
 
構図的には体育館でのシーンっぽくって、あんま意識しなかったなー。
 
 
 
 

責任ある対応って…?

 
七話。六花の姉 十花の台詞
 
 
「パパは「六花にだけは言わないで欲しい」と言ってな‥」
 
 
この台詞を誤解してて、
 
六花は父の葬式に参列していない…
 
 父の死を知ったのは、葬儀も何も終わったずっと後のこと
 
〜と、受け取っていたのよね。
 
 
んなので、
 
最終話冒頭、通夜のシーンがあって、「え?」ってなった。
 
 
三年前に死に、二年前に真実を告白された〜って話だと思い込んでいたから。
 
この曖昧さ*1は、意図的ではなく、こっちの読解力不足だろうけど*2
 
 
死の受容様式に対する宗教対立〜的な投影を強く懐き過ぎちゃったかな。
 
 
 てへぺろ(・ω≦)
 
 
一週まるまる脱線感想で埋めちゃうに至ったのも、
 
ほとんど この勘違いがあったればこそ。
 
 
実質、別の作品を観てたのかもね。私だけ。
 
 
 
 

父の余命期間

 
この物語のレビューで、強調すべきだったのは、
 
親子世代での葬送様式違い〜って宗教対立的部分よりも、
 
 
同じ世界に生きていても、世界の解釈(レイヤー)が異なっていた。
 
 
って、部分だったかな。
 
 
 
父の病状を知らされていなかった六花のその期間は、
 
自分だけ家族とは“違う世界線”を生きていたって訳だからね。
 
 
六花だけが、自分で「異世界」へ踏み出したのではなく、
 
家族が六花だけを同じ世界(共通認識)から排除していたというか、
 
家族が娘に嘘の「設定」を施したというか。
 
 
中二スタイルを始める前に、六花には、世界から
 
大きく「ズレ」や「乖離」が作られてしまっている。
 
 
六花が叫んでいた「爆ぜろリアル」という台詞。
 
 
そこで指している「リアル」とは、
 
「父が死んだ」という現実ではない。
 
‥いや、ぜんぜんない訳ではないけれど、
 
自分だけが現実だと思っていた過去の認識*3‥執着や未練‥に対して、
 
それを振り払う意味も 同時に内包されていたんじゃないかな。
 
‥と。
 
 
*4
 
 

優しい優しい母の対応

 
そしてその乖離は、
 
異なる何かで埋め合わせをしなければならなかった。
 
 
「世界」に対する「信頼」が失墜している状態で。
 
 
姉の台詞で、「母は何度も話そうとしていた」
 
 「六花にだけパパの事 話さなかった事を謝りもした」(10話)
 
〜とかあったけど、
 
 
それら行為はすべて、両者の認識の乖離を強調するし、
 
乖離したまま それを固定化させてしまうものでしかない
 
〜のよね。
 
 
謝罪なんかして欲しくない。そんなものは求めていない。
 
逆効果なんだよ。
 
 
 
その動機や意図や心の善性は関係無い。
 
 
それが例え「親心」であっても、
 
 
 卵を洗えば死なせてしまう*5 し、
 
 若芽を引っ張ったら枯れてしまう*6
 
 
良い動機が良い結果を、悪い動機が悪い結果をもたらす訳ではない*7
 
行いの良否は、行為のもたらした結果から逆算されて評価される*8
 
 
けど、六花は家族を人として悪く評価はしていない*9が、
 
自分に良い結果をもたらす環境としては理解できない状態なのね。
 
こういうアンビバレントな環境も、精神的にキツイ。
 
 
 
 

ハインリッヒバスター

 
 「水‥、あげなきゃ‥」(12話)
 
 
植物を枯らさずに育てている六花。
 
水やりのシーンやその鉢が何度も描かれていた*10
 
 
 
ペットや植物は「主人の身代わりになって死ぬ」と言われるように、
人は精神的に弱っている時に、それらの世話を十全に見られなくなるもの。
 
意識的・無意識的に関わらず。
 
そしてそれは、自分の死の予兆でもある。
 
不注意による事故*11や ストレスを積み重ねた病気、‥自死も含めて。
 
 
そうなる前に、
 
手が回らなくなった「人の世話を必要とするもの」は、
自らの死によって、主人にそれを知らせる(当然、自主的にではなく結果的に)。
 
 
それを、
 
枯らさずに育て続けているのは とても凄いこと。
 
 
これは自分への癒やしより、環境対応を優先するタイプであり*12
この「植物の世話」は、父から躾けられた‥教わった‥こと、
だったのかなぁ…とかも思う。
 
 
 
六花は単に反抗的な子ではないのよね。
 
 
勇太は、アメとムチによって六花に数学を教えた(5話)し、
 
森夏は、恋煩う六花を導きハウトゥ本を片手に成行きを見守っている(9話)。
 
 
六花は基本的に受け身な素直な子なんだよね*13
 
 
そして、「教育」って本来そういうものだ〜と思うし、
 
そういう仕組みの一切が、あの家族には無い。
 
 
いや、元より無かったのならば、六花はあんな子に育ってはいない…
 
…あの家族は、父の死(入院時から?)によって‥、
 
その家庭での教育システム*14も崩壊したんだろうな。‥と。
 
 
 
この、「水をあげようとする行為」と「泣き出しそうになる」こと‥と。
 
 
それらがトレードオフというか、二者択一となっているこの、
 
勇太が“掠いに来てくれる”直前のこのシーンは、とても意味深長。
 
 
 
 

自分が家族の側に回帰するための模索。

 
家族が六花の動向を、その行動を解釈した意味とは逆に、
 
六花の動機は、家族の望みと共にしている。…表面的にではなくて‥ね。
 
 
でも、
 
その家族の言いなりになっているだけでは、
 
三年前の「自分だけ別」な「リアル(虚構)」に囚われてしまう。
 
 
 
例えば姉は、相変わらずで、
 
自分の「イタリアへの料理修行の誘い」を、
 
六花には告げずに、母とまで相談して事後の予定*15を決めてしまっている。
 
家族以外の勇太にまで相談しているのに…。
 
 
その動機はもちろん、妹が「大事だから」なんだけど、そう特別扱いするから、
 
本人には直接言わずに、周囲の人間をまとめて先に攻略してしまう。
 
当人に相談もないまま、考える機会を与えられないまま、
 
決められた結論、論理的な「正解」へと追い込まれてしまう*16
 
 
それは‥、
 
それが繰り返されるほど、「自分」が無くなってしまう。
 
 
じょじょに‥、じょじょに…と。
 
 
 
 

正しいからこそ正しくない

 
姉 十花の台詞
 
 
 「永久に手に入らないんだぞ!」
 
 「それを肯定するのは無責任だ…」(10話)
 
 
もとより六花は、
 
“姉やじいちゃんが否定したがっているもの”
 
“それそのもの”を求めていた訳ではないのよね*17
 
 
その目的(みんな幸せ)は共有しているはずのに、
 
その手段が異なっている。
 
 
 
どちらの手段も正解ではないし、
 
両者の手段は繰り返されるほど乖離は広がってしまう。
 
 
どちから「だけ」の「正しい」対応を前提としている限り…。
 
 
 
 
 

*1:7話 十花「ちょうど三年だ」の台詞。発病して三年後の死で六年前〜と、現時点から三年前〜と、どちらにも解釈できるかな。父が死んですぐ家を引き払ったのか、一年は暮らして二年前に限界が来たのか。父の「立花にだけは言わないで欲しい」の説明に挿入された「あいつ(六花)が小さかったこともあって」の写真は、小5(三年前の三年前)なのか小6(二年前の三年前)なのか。絵面はもっと幼く見えるな。六花「三年前」「パパが居なくなったその夜」「境界線を越えてパパが見えた」…その夜は入院した日なのか、死んだ日なのか。父の実家に来たのが二年前と言っているし、母は「私と六花をパパの実家に置いて出ていった」‥ともあった。姉はその後、仕事の都合で家を出たと言っているが、勇太の家の上の階に住む事になった姉のその入居は何時だったのか。また、そのアパートのベランダで「じゃぁ私たちの家は‥」と父の実家への転居の話していたのは、回想シーンとして矛盾じゃないのかな?

*2:でも、姉の誤解させがちな言葉足らずは設定かも知れない。彼女の旅立ちの場面、「子どもには会わせてね」と言う子ども(夢葉)の台詞に「私が教えたんだ」としか説明しない。それだけでは、説明として不十分でしょ? 子どもが居る事実を教えた〜のではなく、ママゴト遊びで教えた台詞だ〜でしょ?〜とかね。

*3:パパの病気は、すぐに治ると思っていた。

*4:人の脳には、両極端を繋げて円環として理解する仕組みが元々ある。例えば、「色相環」。本来一次元的な波長の長短でしかない可視光線。その領域の両端(赤と青)を、その不可視領域(赤外線・紫外線)を切り取り、同じ「紫」として、認識の上で繋いでしまっている。

*5:汚れたから綺麗にしてあげよう

*6:成長が遅いから早く伸ばしてあげよう

*7:「水伝」が誤りだと言い切れる この世の無情さ。

*8:警察が言う「捜査に過ちは無かった」〜って台詞は、「そんな結果になると判っていて行った訳じゃないんだ」〜って意味だよね。それはそれで嘘・間違いじゃないんだろうけれど、世間はそうは評価しない。

*9:例えば、母親の自罰的な性格は、責任感の高さや、責任回避しない自省的な美徳・美点によって作られているんだろうけれど、母が謝罪し贖罪し、その責任を感じれば感じるほど、構造的に自分が…六花が…赦しを与えない“我が儘な暴君”のように構築されてしまう。それは本意ではない。母を肯定すれば、自分が否定される。母の発言を否定すれば、自分が加害者になってしまう。そんなアンビバレント

*10:加圧式霧吹き器で「魔力チェンバー内、圧力上昇! エネルギー充填!」しゃこしゃこしゃこ…ってネタをやりたかったのが、制作側の動機として先かも知れないけれどw

*11:校舎の屋根から落ちそうになる六花(9話)。家族問題で精神がいっぱいいっぱいだった所に恋煩が重なり限界すれすれの所に、その思いを(良い意味で)溢れさせるような台詞を受けた直後の出来事。

*12:「戦いの中に居る以上、食事は確実に摂らねばならない。」(3話)。戦場の兵士は宿営地でも緊張を解せない。六花にとっては、父の死後の3年間はそういう臨戦態勢を続けてきた状態なんだろう。

*13:悪く言えば馬鹿正直

*14:個性による役割分担などで絶妙に成り立っていたバランス‥とかね。

*15:自分の去った後に母が住んでくれるとの了承を得ている。

*16:11話。「戻ってくるよな?」「うん」。自分の思いはあっても、家族に論理では勝てない。「戻ってくる」と約束はしても確約はできない。結果、約束を破ってしまったから、その事実は伝えられない。その気持ちは無いから。結果は本意ではないから。「学校もあるし‥」というささやかな武器だけでは、やっぱり勝てなかった。その予感の通りに。父と暮らした家からも、姉のアパートからも。繰り返される分かり切った事。どうせダメ…。

*17:六花は、初恋煩の時に、その自己都合の生理反応を、その内的世界の中だけでの因果関係(好きな人を見るとドキドキする)を、外部からの影響だと解釈するタイプ。「今の勇太の目は危険。見ただけで何かが飛び込んできて身体の中を暴れ回る。」(9話)と表現した様に。三年前、父が居なくなった夜、パパが「見えた」と言う「不可視境界線の向こう」も、自分の内的世界の主観的出来事やその整理を、外的な出来事としてしか表現する術が無い故に、ああいう言い方しかできない。