蛇足というか、脱線というか、便乗というか…。

 
え”〜‥‥、
まだやるの‥‥? つづき‥?
 
 
昨日まで書いてきたような、そんなテーマの物語であっても、
 
否定を経ること無しに、同じメッセージを伝える事はできなかったのかな?
 
とは、未練がましく思う。
 
 
あのタイミングでヒロインに、
 
 
 「卒業した」(11話)
 
 
と言わせなきゃならないような状況へまでも、
 
ヒロインを追い込む所まで描かなきゃならなかったのかな…って。
 
 
 
まぁでも、それをやっちゃったら、
 
メッセージ性が弱まっちゃって、伝わりにくくなっちゃうかな‥。
 
 
 
 
けど、
 
逆に思うんだけど、
 
 
今の日本の無宗教という宗教観は、どうしても、
 
一度懐いた「信仰」を、自分で否定しなきゃいけない〜ってトコロなのかな。
 
 
そういうトコロあるよね? 踏み絵を踏ませる‥と言うか。
 
それこそが「通過儀礼」なんだ‥とか。
 
 
それに倣っただけなのかな。
 
 
 
でもこの「否定」は、
 
 
よくある、
 
男の子が戦隊ヒーローに憧れていた事を
 
無理だと分かってやめる〜のとは違うんだよね。
 
 
 
「屈服させられる」というか、「穢される」というか。
 
 
 
教育では、
 
 幼児的な万能感は否定されねばならぬ
 
〜と言うから‥さ。
 
 
 
でも、
 
その結果、クラスで目立って優秀な子が、
 
理不尽に屈辱を与えられて、「負け」を認めさせられる。
 
その子が優秀であればあるほど、
 
ほとんど教師による嫌がらせ‥イジメとの違いが分からなくなる。
 
 
それを見ている周囲の子ども達は、
 
「出る杭は打たれる」「目立った事をするのは損だ」
 
という事を まざまざと見せつけられ、「学習」させられる。
 
 
その上で、
 
「全能感を維持する為に、何もしない事を選ぶ」
 
とも言われてしまっている。草食系批判とか‥ね。
 
 
蛇足だけど、ついそこまで連想してしまう。
 
 
もやは、なんの話だか‥‥し
 
 
 
 
でも、
 
他者に対し高慢に振る舞ったり、
 
他者の利益を侵害するものでもないのだから、
 
それをあえて否定する必要なんてあるのかな?
 
 
その価値観が、他者へ向ける優しさの源泉であったり、
 
自己と世界への信頼を繋いでいる根拠であるのならば、
 
無理にそれ否定する事を「是」とする事はないんじゃないかな…。
 
 
‥って。
 
 
 
日本の多くの子どもが、世界に比較して、将来に夢を持って生きて行けないのは、
 
そういうトコロに要因が有るんじゃないかな…って。
 
 
 
 
 「自分で否定したくなること」と「周囲から否定させられること」との
 
 
決定的な違い。
 
 
はー‥‥、
 
 
 
 
 
そして、
 
 
それを「自分で否定したくなること」が、
 
 
 「「自分で決めた事」に対する「責任を負う事」から逃げること」
 
 
である部分も、同時に内包されている〜ということ
 
 
‥と。
 
 
 
……。
 
 
‥‥。