精神的な一病息災

 
激変した現実の許容の手順。
 
今日も前日のつづきだってさっ♪♪
 
 
 
だってさ、
 
そもそも、
 
 
死者の供養に大枚はたいて戒名を買ったり、
 
盛大な葬式を挙げる為に、生花を飾りまくるのも、
 
言ってしまえば無駄な事だ。それによって死者がどうなる訳でもない。
 
 「無事に極楽に行ける」とか、「ご冥福を」とか、
 
そんなの「無い」でしょ。みんな「分かって」いてやってるでしょ?
 
 
まぁ‥‥し
 
 
 
それらはすべて、生きている残された者の精神を切り替える為の、
 
激変した現実と心の内的世界との齟齬を仮定するための方便でしょ?
 
それを共通認識にする為の儀式‥セレモニーでしょ?
 
 
主人公(勇太)がヒロイン(六花)の唯一の理解者(凸守)に対して
言い放ってしまった台詞は、
 
そういう行いの一切を、無駄だから止めろ!と言っているよなもんなんだよね。
 
 
 
 「そんなものは無いんだよ!」(11話)
 
 
 
震災の復興において、経済合理主義的に考えたら、
 
どうせ死んでしまっている事が確実な遺体の捜索をいつまでもやっているとか、
 
使い物にならなくなった家具や日用品はゴミでしかないんだよね。
 
 
でも、
 
人間はそんな風に割り切って生きられない。
 
仮設住宅を渡り歩くのに邪魔なお荷物と言われようが、
 
遺品を大切にし続けるし、生前のように死者に語りかける。
 
倒壊した家の柱をあえて集めて、あえてそれで再興しようとする。
 
 
つまり〜と言うか、
  
ヒロインは父の死を切っ掛けに中二病を患ったのではない。
 
 
心を癒やす手段としての「信仰」のようなものは、
 
父の死の前から培われており、その延長線上に症状が発現しただけのこと*1
 
 
きっと順番が逆なのね*2
 
 
 
逆に、
どんなに宗教的に「正しい」手法であっても、
 
それまでの人生の延長線上には無いものによっては俄に代替できなし、
 
 
また、
父の死が無くとも、程度の差はあれ、本質は変わらないし、
 
世界に違和感を感じる状況に置かれれば、不可避に発現する〜というか。発病してたというか。
 
 
 
ある意味、精神的な一病息災 ‥なのね。きっと。
 
 
‥‥。
 
ほんとにぃ‥?
 
 
そういう解釈w
 
 

*1:三年前、パパと別れたその夜に、パパに「会った」経験があって、その後二年前に勇太に(一方的に)出逢っている。

*2:ネタバレ:最終話、その「様式」は、勇太の模倣だと明かされる。けどそういうことじゃなくって、当人のリアリティの話。六花の母も、墓石の扱いに擬人的になっている。「急に上から掛けたら、パパ冷たいって言うわよ。」とか。どちらも設定的だが、重要なのはそのフィーリングが合うかどうか。六花自身も現実を否定し逃避していたのではなく、腑に落ちる形での受容を模索していた結果な訳で、あの「邂逅」を果たし、別れの言葉を告げるに至る訳。