「でも」で形容する必要あるのかな?
このテーマ‥メッセージを伝える為の作品であったなら、
このタイトルは適合していないよね?
「中二病でも恋がしたい」 ‥って。
きのうの続き‥‥ね。
この作品…別に、
「恋」と「中二病」とが、トレードオフになっている
〜って、訳でもないんだよね…。
主人公は、別に、
ヒロインに対して、中二病を捨てる事を、
恋を受け入れる条件として迫っている訳ではないし、
特に恋をしたがっている話でもないし…
中二病を捨てられない者が、そのままでありながら〜とかさ。
例えば、
中二病の抑制圧は、恋とは関係無い家族からの拒絶という家庭の事情だし。
主人公にとってヒロインの中二病は、
封印した自分の過去を揺るがすものであるだけ〜だったし、
そもそもその関係の始まりは「恋」ではないし、
むしろその「恋」の芽生えは「中二病」によって幾度も導かれている。
それだけでなく、
中二病の封印は、その途中から始まった恋を、むしろ終わらせようとする。
中二病が障害になっているのは、
中二病的振る舞いを許容できていない、親や姉世代であり、
その親を縛っているのは「常識」という幻想であり、
そんな「常識」こそが「中二病」的な「設定」である
と問いかけているのよ。この作品は*1。
へー‥。
加えて逆に、
クラスメイトがヒロインを受け入れる振る舞い(11話)は、
そんな「常識」は、後進世代には既に存在していない可能性をも示唆している。
「幻想」に束縛されているは、いったいどっちなのか?
〜と。
‥ね。
つまり、
このヒロインの「中二病」は「現実逃避」と言うべきなのか…?
‥とね。
‥というのは?
例えば、
宗教によって死者を受け入れる理屈はそれぞれ異なる。
「天国」や「あの世」に旅立った〜としたり、
星になったり、幽霊になって共に居続ける〜と理解したり。
「転生」によって再び逢えると信じたり…。
それらは すべて現実を受け入れるまでの、
心の内的世界を調節する為の「仮定」であって、
その意味では どれも大差はないっしょ?
「不可視境界線」とかもね。
‥‥なに?
もう少し補足すると、
脳内の記憶を、それまで利用していた領域を、
唐突にその使い道を失った場合、
それはただ放置すれば良いってものじゃないのよね。
脳内のネットワークを組み直す必要がある。
その過程には、保留や仮定が欠かせない。
例えば、
長年自宅で暮らした専業主婦が、年老いてから、
病院だったり介護施設なり、唐突に生活環境を変えられると、
急速にボケてしまったりする訳よ。
脳の広い領域が、使われぬままになるが故に、萎縮してしまうのかな。
生活環境や生活習慣は、記憶だけでは完結していない。
目から入る刺激や室内の移動の方向や距離など、
些細な刺激の応答によって引き出される外部記憶でもある。
それを失う事で引き出せなくなってしまう。
それは、
暗記していて 空で唱える歌であっても、頭から歌い出さないと、
特定のフレーズの次の言葉が不意に出てこない事があるように、
老人に固有の事ではない。幼くても、人の脳はそのようになっている*2。
この作品が使った比喩を挙げれば、
「4×7」と「7×4」
それらは数学的に、実質同じ計算なんだけど、
その答えの導き出し方は違う。一方を簡単と思い、他方を難しいと感じてしまう。
一方では間違えない計算を、他方でケアレスミスしてしまう。
ヒロインは言う「色違い」‥と。
へ、へー‥‥。
つまり‥と言うか、
宗教が異なる異教間で死者の扱いの作法が異なる宗教対立みたいなものが、
現状、宗教が崩壊している日本において、
「中二病」でそれを代替している子どもと親の間に生じている。
1980年代的な、新興宗教の信者と親の宗教対立〜みたいなものの、
よりミクロな環境での発現であって、であってそれは、
現代的な問題として、広く同時多発しているんじゃないかな? …と。
マクロには見えてこなくても…。
こう考えると重要になってくるのが、
ヒロインは親の一方的な「配慮」「思いやり」によって、
その大切な精神ケアを行う機会を、一方的に奪われている。
〜って、ところなんだよね。
そういう日本での宗教の崩壊と共に、
子どもに対する逆効果な「尊重」が蔓延していること共に、
今の時代をちゃんと切り取っている作品なんじゃないかな。
‥って。
もう、少しつづきます。
おいてけぼり‥‥。