「信仰」によって得られる「自由」について…。

先月、後回しにした その話の続き。>
 
 
神の法を、自然法則と読替えたら分かり易いよ。
 
ん?
 
まずは…、
 
極端な例え話で…だよ。
 
 
例えば、ある自由主義者が居て、
「空を自由に飛びたい」と願い。
「天使のように人間も飛べるべきだ」と思ったとする。
                    ‥‥。
 
でも、
この世は、万有引力の法則が働いていて、
どんなに念じても、どんなに神に捧げ物をしても、
飛べるようにはならないし、
 
神を信じて崖から飛び降りても、怪我をするだけ。
 
 
でも、
 
この世は不自由だと割り切って、
神の法(自然法則)に支配されていることを受け入れて、
「空は自由には飛べない」
「人間は地を這って生きていくのだ」と、観念したとする。
 
 
前者と後者。どちらが「自由」に生きられるでしょう?
 
ん?
 
断然、後者だよね。
 
あ。あ、うん。
 
 
できもしない事を できると信じていて、
いつまでも無駄な事を続けているなんて、
 
無駄だーと思うだろうし、
そんなものに捕らわれているなんて すごく不自由だって
思うんじゃない?
 
まぁ、そうね‥‥。
 
 
一人だけ重い荷物を背負って生きているようなもの。
 
 
 
でも‥‥、
 
飛びたいと思い続けた人が居たから、
飛行機は発明されたんでしょ‥?
 
え?
 
それが反論になると思うの?
 
 
なに言ってるのぉ〜?!
 
 
飛行機を発明した人たちも、
「人間単体では飛べない」って観念したからこそ、
 
大きな翼を組み、動力を開発してきたからこそ、
到達できた境地だよ。
 
そのプロセスで、神に抗っていない。
 
神の法則に、自然法則に、則ったからこそ、飛べたんだよ。
 
 
「信仰に従うことによって得られる自由」って言うのは、
譬えれば、そう言う事。
 
 
…なんだと思う。
 
そっか‥‥。
 
 
 
そして、
 
未だ幼い近代合理性によって、無駄にしか見えない、
信仰を元にした様々な習慣や儀礼も、
 
その中には、いずれ科学的に有効性が証明される事も、
いくらかあるんじゃないかな。
 
 
 
例えば…、
 
日本の願掛けのお百度参りも、中東の五体投地のような所為も。
 
 
それをしない人より、している人を、「神は助ける」と思うよ。
 
前者の早朝の運動と習慣付けは、自律神経失調症の治療として凄く合理的だし、
後者の運動も、全身運動として老化防止の効果が期待できる。
 
健康な体を手に入れられれば、それを得られていない人に比べて、
様々な場面でリードを得られるのは自明なんじゃない?
 
う〜ん‥。
 
 
その長期的な変化は、
個人として「変化だ」とは あまり自覚できない。
 
酔っ払いが「酔ってない」と言うみたいに。
鬱病の人が「元気だよ」と言うみたいに。
 
客観的に自分を判断する その「物差し」自体も
同時に変化しちゃうから。
 
う〜ん‥‥。
 
 
でも、傍目には大きな変化だし、判る人には分かる。
する人と しない人とで成果が違ってくる行為として、
伝統・文化、宗教行為の中に、適者生存で残ってゆく。
 
そうやって残ったきたものとしての それら。
 
 
 
そして、「自分には自覚できる変化が無いのに、
なぜだか成果がついてきた」ように思えれば、
その感謝は、自分以外の何物かへ向くんじゃないかな。
 
例えば、神‥と。
 
 
 
もちろん、同じ健康的な者同士の間で、至極 短期的に見れば、
習慣に拘って得られるチャンスを失しちゃう者を尻目に、
特に習慣を持たない人が、油揚げをさらっちゃう事はあると思うよ。
 
はぁ。
 
戦後の急成長期には、そんな場面も多かったんじゃないかな。
 
「早い者勝ち」が、真理に見えた時代。
 
睡眠を削って、夜更かしして、他者を出し抜くことができる
‥と、信じられるような事例が多発してたと思う。
けど、成熟した社会では、そうもいかないと思う。
 
かも‥‥。
 
でも、これからは、
大器晩成が信じられる時代になってくるんじゃないかな。
 
願望‥‥。
 
話が逸れた(^^;ゞ
 
 
 
それら行いは、自分の行為の結果として当たり前の事であり、
自分の成果であって、誰に感謝することでもないのかも知れない。
 
しかし、
そのような行為が「あなたを助ける」と語り継いできた文化や宗教が
今そこにあったからこその模倣・実践であり、
その結果としての成功なのだから、
そのような営みに対して感謝をするのは、
なにも当て外れではない。よね?
 
はぁ‥。
 
そもそも、
そのような行為によって律するように、体の仕組みを作り上げていたのは、
神自身の創造なのだ〜と考えれば、その仕組みを利用した結果は、
念願成就という成果は、神の恩寵として それを感謝することも、
 
また、なにも的外れな行為ではないと思うし、
誤った論理でも無い…と思う。
 
 
 
 
…という、私感。