愛について語らなきゃならないなら…、


映画『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』見たい!
あなたにとって「永遠の愛」とは、どんなものですか?

あなたにとって‥と言うか、
誰にとっても そうなんだろうけれど、
 
「永遠の愛」と言ったら、神の愛でしょう。
 
え? え? え〜〜?!
 
 
「神」の愛が 永遠だ…と言うのではなく、
 
永遠であるものを 神と呼ぶ…という意味で。
 
 
逆に言うと、
 
永遠だと思っていたものが
有限に尽きたとしたら、それは神じゃなかったってこと。
 
 
そんな元神は、地方土着な多神教の神として、
はたまた精霊や天使として、唯一神ではない存在として、
形を変えて残ってゆくのだとしても…。
 
全能の存在としての神ではなくなる。
 
う”ぅ〜〜〜ん。
 
 
 
だから、
唯一神を掲げている宗教は、神を具体化し難い。
 
具体化したら、そこが否定の糸口になっちゃうから。
 
ある時点での 狭い真実が成り立たなくなったら、
神は 神であれなくなっちゃうから…。
 
 
そういう意味で、全能の神を掲げている宗教は、
必然的に「神」の書き換え更新を余儀なくされる。
 
「解釈」で対応できる場合もあるかもしれないけれど。
 
ぅ〜‥‥。
 
 
全能を神と規定すれば、真実こそが神だから、
 
時に宗教は「現実」に抗っているように見えるけれど、
おそらくそれは、あるべき姿ではない。
 
神が全能であるならば、科学と宗教とは、最終的に矛盾しない。
必然的に同じ結論を導くはず。
 
それらが異なっている場合、どちらかが間違っている。
 
科学的真実が、一時的、限定的な真実なのか、
神として形にされた「物」が、神の実体からズレを生じているのか…。
 
定義上、神は過たない。
だから、それを理解する人間の方が間違っている。
 
結果、信じるべきものを信じている者が救われる。
 
くらくら‥‥。
 
ちなみに、
 
「信仰によって得られる自由」というものも、
この例えだとよく解るんじゃないかな。
 
‥‥。
 
…。
 
(;´▽`A''  …では、
それは また機会があれば。その時にでも。
 
 
 

…ちなみに。

 
私にとって、神とは そういうような存在なので、
 
例えば、神への「感謝」というものを、
 
日常的な、
恩義への返礼としての「感謝」とは同列に見れない。
同じ言葉で表現するのに抵抗がある。
 
どんな形が相応しいか分からなくなる。
 
 
神ならば、そこに恣意的な判断は無いから。
 
神へ感謝と祈りを捧げる行為も、
 
神の恩寵が途絶えるのを怖れて続けているのであれば、
それは、神を、そのような嫉妬深い…普通の…打算的な…
人間のような存在として見ている事になる。
 
それは不遜なことのように思えたりる。
 
 
神への感謝や祈りは、日々の行動で献げるもの。
 
見返りを求める…トレードとして行うことではない。
 
マウンティングのような身分の上下を思い知らせる為に、
あえて無駄で苦痛を伴う行為を無理矢理させているものでもない*1
 
 
それをすることそのもの、そのことによって、
直ちに、その時点で、正の循環が生じているもの。
そんな行為。それが祈り。善行。
 
その一つ一つは、
目に見えて大きな変化を もたらすものではないけれど、
それらが無数に積み上がって今がある。
 
発展史観として読み取れる「歴史」がある。
 
 
その営みに自らも加わる事が、行うべき「愛」なんだろうな。
その一助になっているという確信が、信仰なんだろうな。
 
 
って。

*1:そんな理不尽によって統率される組織もあるだろうけれど、そのような「神」によって統治された集団は、そうでない集団に対して、その不合理故に後れを取るだろう。何も決めない「会議」によって無駄に人を拘束するバブル後の日本組織が、今、世界に後れを取っているみたいに。それを保守主義的に「伝統文化」として原理主義の神として崇め、神と共に臣従(心中)するのも一つの生き方だと思う。しかし、そうして滅びた後、他から見たら、その「神」は、人を惑わし破滅させた悪魔そのものに他ならないだろう。