はぐらかされているとしか思えない
重複する「ありがとうございます」とか、
具体例の伴わない賛同表現。
「参考になります」「ユニークですね」
「観点が違う見方」「勉強になります」
「なるほど そうですね」「仰る通りだと思います」
「こういう別の見方もあるのかと気付かされました」
丁寧に対応を なされていることは、
攻撃的なモノなんかに比べて全然良いことなんだけれど…。
なんだか、私には、
はぐらかされている としか思えない。
だから、二の句が告げられなくなる。
もう少し補足をしたいんだけど…と思っても、そのまま飲み込んでしまう。
誤解をされたまま、その場ではイタイ子扱いでいいや…と思ってしまう。
なんで また?
なんだろう…。
役人言葉に対するアレルギーでもあるのかな。
そういう層とは、ほとんど接点なんて無いんだけど*1。
慇懃無礼に対して過剰反応しているのかも知れない。
慇懃無礼?
嫌悪し、見下している相手に対して、
ことさら丁寧な敬語を用いることによって、
実質的には 失礼な応対を貫くこと…かな。
よく分からない。
とは言え、そもそも私の中にも、
『こういう言い方をすれば良いんでしょ?』
…とか、どこかで思っている部分が あるからなんだろうな。
事故 連 瓶‥‥。
えと、それ笑うトコ?*2
なに?
いや、別に…。
親切は相手のために行うのではない。自分のために行うのだ。
情けは人のためならず。…等々といった言葉があるけれど、
ホント、そうだと思う。
ちょっと、普通とは違う意味で。
例えば…、
20世紀のアメリカ人が、都市伝説的に宇宙人を怖れたのも、
自然や動物を、自分の思い通りに操ろうとしている姿を、
実例そのまま自分とその上位者の関係へとスライドさせて
考えたからだ。
突然さらい、体を切り刻んだり、何かを埋め込んだり…。
それらは、人間が、動物に対して行っていたことそのままだ。
確かに♪♪
人は、他人と共感する能力を持っている。それは、
言い換えれば、立場を入れ替えて認識する能力です。
苦しい立場にある者へ、同情を寄せて手を差し伸べることが
できるのは、そのため。見てるだけで自分が辛いから。せずには居られない。
しかし、と同時に、
自分が他者を蔑んだり、嫌悪したりしていれば、
その感情は、そのまま他人から自分がそう思われている
実感とも成り得る。
誰も、自分に対して敵意を持っているような存在など、
どこにも居なかったとしても、
強い存在感を伴って、その存在を怖れたり、
怒りを撒き散らしたり、赦しを請うたりする。
あ。自分が そうだって言ってるんじゃないよ。
ビックリした。
でも、
きっと、そうなんだろうな…と思える人は居る。
だからどうしても、自分に照らし合わせて考えてしまう。
でも…、
こんな風に考えたからと言って、飲み込んだ言葉を、
その場で はき出せるようになるわけじゃないんだな…。
どうやって真意を確かめたらいいんだろうね。
確かめなきゃ‥‥だめ?