誰もが複数の今を生きている。

 
 
今って何だ?
 
 
‥突然なによ‥‥。
 
 
今は春だ。‥と言うのも「今」だし、
 
今日が2月28日だ。‥と言うのも「今」だし、
 
今はブログを書いている。‥と言うのも「今」。
 
文章を改行するために[ENTER]キーを押す瞬間。‥ってのも「今」。
 
 
逆に、今が2013年という今、21世紀という今、
歴史スケール、地質年代のスケール、宇宙スケールの今も。
 
どの「今」もまた「今」であることに違いない。
 
 
そーだね。
 
 
 
人は、複数の「今」を同時に生きる事ができる。
 
 
読書してる時の「今」は、
 
ページを繰っている「今」と同時に、
 
本の登場人物の情景としての「今」でもある。
 
 
本を途中で閉じれば、その「今」は そこで止まるし、
 
週刊誌等を読んでれば、読んでいる連載の数だけの「今」が、
そこに止まったまま 同時に存在する。
 
 
え〜‥っと‥‥、
 
 
 
 
個人が抱えている問題が、「解決しない期間」というものは、
 
それが解決するまでは、そういう「今」であり続ける。
 
 
それは、
 
ネットでファイルのダウンロードを待つ間である「今」を、
別のサイトを見る時間として過ごすのも、同時に存在する複数の「今」。
 
課題を複数の抱えられない者は、
 
ダウンロード率のメモリが伸びるのを凝視したまま待ち続けたり、
転送レートの変動を睨みつつ、一喜一憂したりする。
 
 
 
「今」を抱えすぎず、複数の「今」を渡り歩かないってのも、
一つの在り方であり、どちらを選ぶのも自由だよね。
 
 
そりゃ‥、まあ‥‥。
 
 
 
 
でも‥、
 
人生には、そうやって、
 
ただ待っていられないスケールのものもある。
 
 
受けた試験の結果発表が出るまで、
 
 とか、
 
報道されるニュースの顛末、政治の行方、
何時かは必ず起きるとされる震災の「その時」。
 
ただ「待って」は居られない。
 
 
「人事を尽くして天命を待つ」「待てば海路の日和あり」
 
 
故に、そんな言葉もあるのだろうね。
 
 
 
 
だけれども、
 
待っている間に、「前の作業を忘れて」しまっては、
 
「今」の継続ではなく、
 
別の「今」を「新たに構築」する事になる。
 
 
日々の雑務とは別に、平行して、
 
ゆっくり変わる変化を、別立てで追える脳が必要となる。
 
 
‥‥忘却曲線
 
 
 
 
そこで思う。
 
 
小学生が、「朝顔の観察」をするのは、
 
なにも、
 
 理科教科として植物の植生を知識として身に付けること
 
〜が、主たる課題ではない。
 
 
 
ただじーっと凝視して見つめているだけでは、
 
「変化の知覚できない」ような、植物のゆっくりとした変化を、
 
目先の刺激に反射的に動いているだけのような子供に対して、
 
 それらを複数 内在化させること

それこそが、
その課題の重要な目的‥なのではなかろうか…?
 
 
と。
 
 
あー‥。