プレゼントの機能ってなんでしょう?

今週のお題がクリスマスプレゼントについてだったけどさ…。
 
プレゼントって…、
貰う側の都合ばかりに焦点が当てられてるけど、
贈る側の思惑の方を、
もっと重視されてもいいんじゃないかな…って思うの。
 
自分なら何が欲しい…だとか、
何を買ったら喜ばれるか…いうようなコト
ばかりだ〜ってこと だよね。
うん。
 
贈る側が、それぞれの都合で、
何を贈るか、どんな気持ちを込めるか。
まちまちになった方が、貰った側の記憶にも
バラエティが生まれる。…か。
よねぇ?
 
何が喜ばれるか…、無駄になったら勿体ない。
そんなコトばかり考えているから、結果、
みんながみんな 商品券のようなものへと
収束していってしまう。
 
で、金額で相手の気持ちを測る…みたいな。
 
そう言っちゃうと、なんか ヤな感じよね。
 
 
 
あ。
 
そして、それって実は、
 
相手のことを考えているようでありながら、
感謝の度合いを プレゼントの金額によって
押しつけているようなもの なのね。
 
そうではなくて、
自分からは自分が良いと思うものを、
それぞれに同じモノを贈るんだけど、
贈ったモノは同じであっても、
受け取った側の都合で、価値観で、
感謝の度合いがそれぞれ変わっても
それはそれでいいんじゃないか。
 
むしろ、そうであった方が、
プレゼントを受け取った側に、感謝の度合いを判断する
自由が与えられることになる…とも、言えるかもね。
 
相性とかね〜♪
 
 
合理主義的には、それだとなんだか無駄にも思えるけど…、
 
そうであった方が、
意図しなかったものに出会う機会も増えるし、
 
もてあますモノを どう利用するかを考えることが、
その場には居ない相手とのコミュニケーションの代価
にもなり得るんじゃないかな。
 
個性を楽しむとか。
 
そんな状況を許容しあってゆくことの先に、
多様性の拡張にも繋がってゆくかもね。
 
うん。
 
ボランティアや寄附が根付かないコトにも通じるかも。
それらは偽善ではなく、自分が正しいと、好ましいと
考える価値観が広がってゆくことに、そうなれば嬉しい
自分のために、行うものだ。…とは、ならない。
 
それらは、客観的に世間的に「正しい」とされている
ものでしかありえなく、自分が参加しようがしまいが
必然的な流れであって、向かう先はどうせ決まっている…
…ってなっちゃってるんだろうな。
 
だから、それらに参加することは、どれであっても
偽善って事になっちゃう。対外的なパフォーマンスだ
…って。政治に対してもこれと同じ感覚なんだろうな。
 
何をしようとしている人を支持する…のではなく、
欠点ばかりをあげつらって扱き下ろすばかり。
 
お〜…い。
何の話になってるのかなぁ〜…。
 
 
 
 
けど…、
 
やっぱり…、
 
ゴミ箱直行…とかされる〜とか思っちゃうと、
冒険は できないよね。
 
あぁん
もうっ!!
 
本なんか贈ったら、むしろ、
「読了するのに必要な何時間かを、私から奪うのか」
なんて言われたりね。
 
けっきょく…そっちばっか。