気が置けないのはどんな人?

 
「気が置けない」
 
いい意味ってのは
知ってるけど、
 
「〜けない」って表現が
引っ掛かるよね。
 
これだとなんか、
基本、気をつけてなきゃいけない
みたいじゃない?
‥‥と いうと?
 
 
「シートベルトは しなきゃ いけない
 
‥みたいな。
ははぁ‥‥。
 
 
「他人はみんな 何するか判らない」
 
「注意を怠っちゃいけない」
 
「…なんだけど、…それは判っている…だけど…、」
「…この人相手だと、ついつい気を抜いちゃう。」
 
「いちいち気を 置いて られないっ♪」
 
 
〜こういう感じで、
 
前半二行のような前提「他人は信頼できない」のような、
疑惑でネガティブがベースな時代において生まれた言葉〜なんだろうな。
 
…って。
 
 
‥でもそれ、
今とちょっと似てる…。
 
ね。
 
「ヤバイ」と言って誉めたり、
「全然」で肯定したりする今も、
 
ベースは「他者が否定的存在である」ことが前提されている
 
「他者を誉めなきゃならない事」が、ヤバイ訳ね。
 
ねぇ。
 
 
 
 
こう考えると、
「気が置けない」という言葉が廃れ、
意味が通らなくなった背景も見えてくる。
 
バブルな時代…一億総中流・人類皆兄弟と言われてた頃…。
 
ミミズバーガーな都市伝説も克服してきて
「市場化」されたあの時代。
 
「他者は信頼して当然の存在である」ことが
ベースになっていたんだろうな。
 
…って。
 
隣に住んでいる人を知らない
‥‥とか。
 
 
…とかでも、平気だった。
 
初めのうちは…。発展し続けている内は…。
 
 
 
そして、そんな時代にあっても、
 
他者を信用せず、自己利益だけを考えて、
他者の信頼には寄りかかり悪用し利用してきた存在…、
フリーラーダーは、他者より一歩リードできた。
 
加えて、身内贔屓な組織作りを怠らなかった集団…。
そんな者こそが、今現在の勝ち組と言われる存在。
 
今の この十数年の指導者層は、基本そういう存在だから、
他者を大衆を都民・国民を信用せずに、できずに
 
規制せずにはいられない。いられなかったのかな。
監視し、管理し、抑圧できる対抗手段を持っていなければ、
安心できない。
 
そんな人達は、
たいてい自分達のことを 「保守」 と、自称している。
 
 
彼らは、気が置けないなんて事は無い。
揺るぎない敵意を持ち続け、常に疑い続けていられる。
抜かりはない。
仮想敵国に対抗手段が無いと安心できない。
いや、有っても増やし続けていないと安心できない(大予言にまで対策取ろうとした人のメンタリティってそんなだったかも? でも身内に甘く他人を考慮しない「想定外」。)。
 
 
…んじゃないんじゃないかな。

…と書いておきながら、

今はもう、そうでもないかなぁ〜って感じてる。
今でも「ヤバイ」を使っている人も、
違和感のある表現をあえて使っているってよりは、
当たり前になった表現を普通に使ってるだけって感じ。
 
身近な人にまでも、気を置き続けることに疲れ切っているんだな…きっと。
 
ゼロではないけど、ほぼゼロのリスクに対し、
わざわざコストを裂く余裕が失われてきていて、
またそのコストによって得られるリターンも、
無視できるほど小さい*1
そんなのチャラにしちゃう大きなリスクが眼前にある*2
 
今‥というか、ちょっと前まで‥なのね。
 

*1:長寿に良いとされる民間療法に高額な出費をするとか、医学的根拠の無い自然食品を食べ続けるとか。隣りの見知らぬ住民が良からぬ陰謀を計画しているかも知れないとか。ある日突然、青天の霹靂に打たれるとか。メテオストライクするとか。

*2:年金もらえるまで生きていられるか判らないのに、保険料なんて払えない…とか。何時失業するか判らないのに、ローンなんて組めないとか。放射能汚染の可能性があるのに有機農法なんてやってられない…とか。